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基本的には自分の思考を整理する場として。

「ローサは密告された」から日本の "少子化批判"を憂いた

以前から気になっていた「ローサは密告された」(原題:MA'ROSA)を観てきた。 予告通りそれは、フィリピンの都市部貧困層が抱える不安定な生活や、腐敗した行政組織をありありと描いていた。


『ローサは密告された』予告

また一方で、フィリピン人の明るく互助精神のある国民性も描かれていた。道端でカラオケに興じる若者の姿に、家族で協力してお金を集めるシーン。いまの生活は苦しく、未来も不透明なのに、エネルギーに満ちたその姿からはなぜか、生きる元気をもらえた。

と、ここまでは一般的な感想である。

鑑賞後はじめて私の心に浮かんできたのは「この地球上で、幸せに生きられる人の数には限りがある」ということだ。

この作品の大きなポイントとして、商店で麻薬を取り扱っていた一番の理由は、生活資金を得るためだったという点がある。雑貨や日用品だけでは家族を養えるだけの十分なお金が得られないということだ。しかしその麻薬のせいで捕まり、莫大な釈放金を支払うために金策に走る。お金を得る手段によって、より多くのお金が必要になってしまっている。

また、言い値で釈放金が払えない場合には、他の売人を密告してその代わりとする。主人公自身も密告されたから捕まったのであり、またその主人公は他の売人を密告し、彼もまた莫大な釈放金を要求される。

さらにこの釈放金という仕組みも、単純なものではない。腐敗した警察組織が、袖の下として取り立てているだけのものだ。この制度がはびこってしまった背景には、基本賃金だけでは豊かな生活ができないという問題がある。

つまり貧しい者たちが、小さな富を奪い合い、なんとか生き延びようとしている構造が見えるのだ。

ここで私は考えた、「人間が多すぎるのが問題なのではないか」


これまで教育の力を信じて、様々な教育支援事業に取り組んできた。 教育によって各人に力をつければ、貧困から抜け出せ、自力で人生を造っていけると信じていた。

でも仮に、全員が力をつけたとして、その全員が就職できるポストはあるのか。そもそも社会はそれほどの労働力を必要としているのか。 人が生きていくため、食い扶持を稼ぐためだけの仕事だとしたら、それは存在する意味があるのか。

地球には、現在いる人口の全員が安定した生活を送るだけの資産はないだろう。 生まれても、ただ生きるための仕事をし、死んでいくことに、意味はあるのだろうか。

日本では少子化が問題視されているが、少子化単体では問題ではなく、高齢世代が多すぎることが問題なのではないか。 単に出生数が増えることは、豊かさにはつながらないだろう。

また出生数が少ないことを問題としたいなら、「所得もある程度あり、子供に適切な教育を施すことのできるような層で」出生数が少ないことをあげるべきではないか。頭数が増えても、逆に社会の負を増やしてしまうこともあるのだから。

綺麗事を言えば、子供は誰しも宝であり、家族が増えるのはよいことだ。でも、暗い苦しみの中で奪い合い痛めつけ合う世界が待っているのだとしたら、それを味わう人を増やすことは、果てして素敵なことといえるだろうか。